スエデンボルグの度について

キリスト教の真意を広めた19世紀の宗教哲学者スエデンボルグは、その著書群で繰り返し「」について述べている。人の心的なレベルを決める度は、スエデンボルグにおいて中核概念のひとつである。著書より一節を引用しよう。

彼は自然界の最低の度の中に生まれ、次に知識により第二の度に挙げられ、知識により理解を完全にするにつれ、 第三の度へ挙げられ、かくして合理的なものとなる。霊界の上昇の三つの度は人間の中にあって、三つの自然的な度の上にあり、人間がその地上の身体を脱ぎ去るまで現れない。それが脱ぎ去られると、最初の霊的な度が彼に開かれ、後に第二の度が開かれ、最後に第三の度が開かれる。しかし第三の度は天界の天使になる者の中のみ行われ、これらのものは神を見る者である。『神の愛と知恵』P67

自然界とはこの世、人間がつくってきた社会である。その自然的な社会において、人間は生まれた時は最低レベルの度であり、知識を得て第2の度に上り、理解を完全にするに従って第3の度に上がる。勉強や経験を重ねて知識を得て、知遇を得て、自負を持ち、称賛されてこの社会でトップの度になるのが栄達だという。賢くなり、いい仕事をして、富を得て、安泰な暮らしをする、と言い換えてもいいだろう。さてそれは真の意味で高いレベルなのか?スエデンボルグはそうは言っていない。それは自然的な度であるとしている。その「地上の身体」を脱ぎ去るまで、霊的な度、つまり神の愛と知恵に近づくようにはなれないという。この世では崇められても、霊的な度に入らなければ宇宙を造る善い人にはなれないという。その霊的な度も三段階あり、一番上は天使であるという。

度とは何なのか?

それはその人の覚醒レベルである。この社会で良い仕事をした、自分は才を発揮できたと自己肯定・自己満足をしている段階はまだ自然的な人間である。ビル・ゲイツが、ジェフ・ペゾスが、柳井正がこの宇宙で真の偉人だろうか?生き方上手、儲け方上手なだけではないか。そんなに「偉人」でなくても、自分自身や自分が尊敬する人は、単なる自然界の度を生きているだけではないか。

たとえば樹脂産業に勤めることは善か?自然界を汚し、発癌物質を増やしているだけではないか。自動車産業は善か?人の移動を容易にしたが、人の移動は善なのだろうか?加工食品業は善か?便利だが添加物を肯定することはできない。コンサルタント助言業は必要なのか?本人がやればいいじゃないか。いわんや兵器産業は善か?役にたつことを書いているのか?資源の浪費、時間の無駄、無意味の量産ではないのか?youtuberなる者が必要なのか?騒がせて自己顕示欲を満たしているだけではないか。

一方、自然的な仕事であっても、それが善であればその人は霊的であるとは言える。たとえば医師は尊い仕事をしている。しかし救命よりも名声や地位や富を求める心が強くないか。教師や介護士も良い仕事である。だがきちんと人を導き、弱き人を助けているか。自然的な生き方で善でいられるのは狭い道を行くことである。

おのれのキャリアを否定することはおのれの人生を否定することだ。だから多くの人はできずに立ち止まる。この世のプライドや欲求に囚われ、それを求めて生きる。それでは霊的な度に入ることはできない。なぜ自分は生きているのか?何のために生きるのか?真の生き方は何か?と考えだすことが「地上の身体を脱ぐこと」第一歩であり、一番下の霊的な度に達するということである。

自己否定をすることは暗がりに自らを投じて、先が見えない迷い道に入るようなものある。実際、そこで命を落とす人は多い。たとえば愛に溺れた太宰治はそうだし、コンプレクスに囚われていた三島由紀夫もそうであったのかもしれない。だが自己否定は覚醒への道、霊的な度の第一段階なのである。

では霊的な第二の度は何か。霊的に生きる(=神と共に人を造ること)自分の「用」を定めることである。用とは使命である。それに覚醒し、実行することが第二の度に上ることであり、完遂することが第3の度に達することである。
2026年4月24日

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