about

<この日記で綴ること>
生命とは何か。生きるとは何か。使命とは何か。心と体と魂はどうかかわりあっているのか。生き直しの芽を出せ。懺悔から善に向かえ。岸に向かって櫂(私にとってはトランスジェンダー)をつかんで漕ぎ出せ。〝大きな善い人〟を造る使命を生きよ。日々これらを問うて綴る日記です。

<この日記のなりたち>
幼少から青年期まで、孤独な壁の中に棲みながら書くテーマを探し、愛する人を探し、馴染める社会を探して、何年も旅をしましたが見つかりませんでした。見つけたふりをして仮面をかむって生きだしました。それが私の社会人になることでした。やがて仮面の下にある歪んだ顔が外に出てきて、私は数度の不倫の欲情に身をまかすものとなり、家庭を壊し、仕事も壊し、築いたものをどんどん壊していきました。ところが「壊している」とはまったく思わず、私は私らしく生きようとしているだけだと思っていました。

なぜなら仮面には悪を正当化する働きがあります。仮面が光を遮断し、善の入る隙間をなくし、ただ仮面の下にある悪がその人を動かすからです。すると人は光を求めずただ暗闇を歩き続けるのです。そんな私は孤独で、生き方を見つけられず、馴染める社会もなく死んでいくのだなと思っていました。ぐるぐると回るだけの日々を送っていました。

ところが還暦のある日、ひょんなことから、仮面の下のその下から「なりたい姿」が出てきました。それはトランスジェンダーという私でした。なりたい姿(女性化)に向かう力は強く、私はただそれに従うしかありませんでした。女性化するにしたがって、オープンでポジティブな性格になっていき、人の中に入っていけるようになりました。

私は疑問をもちました。女性化とはどういう意味なのか?

そこであまたのトランスジェンダー本を読みましたが、医学にもジェンダー学にも体験談にも答えはありませんでした。答えはだれも書いていないのか?と思って自分に聞きました。すると直感的にそれが「罪と罰」から発しているものとわかりました。

理屈をつければ、私の最も強い悪は女への欲から発したもので、らばその姿になるという罰ゲームをさせよう、あるいはトランスジェンダーを嫌悪する社会でつらい目にあわせよう、という神の裁きだと思ったのです。答えの何割かはそれで説明がつくようですが、すべてではないと思いました。残りの答えはロシアの文豪トルストイの『懺悔』にありました。

岸はすなわち神であり、進路は伝説であり、そして櫂は、岸に漕ぎ着くため、すなわち神と合一するために、私に与えられた自由であった。

生きる意味がわからず何年も絶望に暮れたトルストイが、ついに光をつかんだ、絶望の淵から生の力を得たときの文です。岸とは神のいるところであり、進路の伝説とは神を目指してきた人びとの歴史であり、そして櫂とは岸にたどりつくための道具です。神に近づこうと漕ぎ続け、難破しなかった者だけが岸にたどりつきました。

私の櫂はトランスジェンダーだとわかりました。トランスジェンダーはたんに「装いを変える者」ではなく「仮面の自分から自由になる者」です。自分を変える力があり、人びとを生きづらくさせるあらゆる慣習や常識、ルールを打破し、世俗や欲望を退けて使命を達成することに喜びを覚え、人間が本能もつ共生や再生力を求める人になることでもあります。

しかし人間の本能は近代から現代へ抑圧される一方をたどっています。社会的な対立や制度や慣習という束縛によって、したいことが均質均一になり、富や名声を求め、自己中心に生きることが正しいとされる社会が広がりました。人は何のために生きるのか?何をするためにこの世に生を受けたのか?見えなくなったのです。

18世紀の神学者エマニエル・スエデンボルグは、人は「神の使命を受け止めて実行する器であれ」と説きました。しかし器には色欲や我欲や権欲など悪があふれ、人びとはそれらは正しいと思い込んで、善が入る余地がありません。善を入れるためには懺悔をして「自分がもつ櫂」に気づかねばなりません。櫂をもつことは用(英語でUse、ラテン語でUsus)です。用はスエデンボルグ思想の中核となる語であり、「大きな善い人間像」をつくる使命であり、人々と共にそこに向かう推進力です。

櫂を動かす原動力は愛と知恵です。スエデンボルグは、人が生命を維持するための二つの能力を愛と知恵として、人を理解し意志をもって行動する力としました。人は神の意志を受容する器官として創造され、その器には人間のもろもろの遺伝悪がたたえられ、その悪によって神に反抗する人になったと伝えました。そこで器を善なるもののみを受容する器に再生していくために本を書きました。

キリスト教を背景にするスエデンボルグだけではなく、東洋でも同じ思想をもつ人が多数いました。道教の伝えるところ悪とはあらゆる欲です。渇愛すること、疑れる海に沈むこと、成功欲を抱くこと、怒りを抱くことなど、すべて人の中にあるものです。いかに悪を退けるか?心を空にして自分を捨てて、すべてに執われない霊的な人間再生をせよと教えてきました。古今東西、キリストや釈迦から道教まで、同じことを告げる人々がいました。

さて、私は道教の教えを学んでいるとき、疑問がいくつも湧きました。そのひとつは、性を変えたい私にその欲を捨てられるのか?というものです。トランスジェンダーは自分の存在理由であり、それを捨てることは死ぬことでもある。どう考えればいいのでしょうか。答えは「執われない生き方」にあります。空っぽ、つまり器になることです。

空っぽになることによって、空の器に新たに有を生み出せるのです。執われない空の器を心にいだくことで、自由になれるのです。いわゆる女の姿、いわゆる男の姿、いわゆるトランスジェンダーの活動からも、自由になれる。自分の思い描く男でもなく女でもないジェンダーを身にまとうことができる。空になる勇気を得ることができました。

愛と知恵とジェンダーを超えたジェンダーを日々つづり、そこから伝えたい文にまとめてそして死んでいくーそれが私のミッションです。解を深めるために、この日記を書きます。それがあなた自身の用を考える一助になれば幸いです。

Diary of Useー用の日記と題して、懺悔、神の愛と知恵、トランスジェンダー、霊的人間再生というカテゴリーでつづります。なお、エミリー・ディキンソン(Emily Dickinson)は19世紀のアメリカ詩人で、引きこもりの生活をおくりながら1800篇の詩篇を残しました。当時のエミリーのように「だれでもない」人としてことばを残したいと思うので、エミリーの詩のことや詩の翻訳をつづってまいります。

最後に、「あなたの用」は何でしょうか?たんに仕事で成し遂げることとは違います。むしろ仕事はすればするほど用から遠ざかることでもあります。内なる心の善を覆い、覚醒への芽を摘むこともあります。そのことに気づくことが生まれ変わる一歩です。人の生の意味をつかみ、自分の用を知れば、人生を自分らしく生きなおすことができます。ご自身の用をつかんでください。

2026年4月4日